※古いデータを整理していましたら、大学院時代に思想系サークルの機関誌に寄稿した拙文が出てまいりましたので、掲載させていただきます。

伝統芸能の意義

 よく知られた故事成語に「温故知新」ということばがある。ものの本によれば、その定義は、「何事にもあれ、過去をたどり、それを十分に消化して、それから、未来に対する新しい方法を見つけるべきだ」とある。使い古された表現ではあるが、いつの時代にもこのことばが真実であることに変わりはない。

 伝統芸能の意義もこのことばに集約されるであろう。先人たちが築き上げてきた遺産を十二分に吸収し消化することにより、「いま」にふさわしい斬新な解釈が生み出されていく可能性が生まれ、それは次世代の新しい何かのクリエーションにつながっていく。文化はその循環によって生まれるものである。

 
たとえば、市川猿之助が行なう「スーパー歌舞伎」を始めとして、最近では、津軽三味線の吉田兄弟など、伝統芸能を現代流解釈でポップなものに仕上げている試みが多数ある。しかしながら、もし伝統芸能それ自体が存在しないならば、必然的にこれらの試みも存在しなくなる。伝統芸能をベースに次世代の芸能が創られていることは紛れもない事実であり、わが国において、伝統芸能の果たしている役割は大きいといえる。

 
さらに、近年の芸能界の質の低下は目も当てられないが、こうした状況下で、人々の伝統芸能に対する関心は少しずつ高まっているのではないか。ヴィジュアル重視で実力が必要とされない、さらには、プロとアマチュアの境界線がなくなった昨今の芸能界を見ていると、真に技を究めた「ホンモノ」、つまり、プロフェッショナルを求めたくもなろう。大ヒット映画『陰陽師』における野村萬斎を筆頭に、いわゆるトレンディドラマといわれる領域に数多くの歌舞伎役者や狂言師などが進出していることにも、そうした傾向が如実に現われているとはいえないだろうか。

 
いささか民族主義的な解釈と取られてしまうかもしれないが、敗戦によりアメリカに去勢され、“西洋もの=かっこいい、日本もの=ダサい”とされた時代感覚が、ここに来て大きく変わろうとしているのではなかろうか。伝統芸能に対する静かな関心の高まりを、日本人の持つアイデンティティがよみがえろうとしている時期と考えることはできないだろうか。

 
水戸黄門の印籠を見たときに覚える安堵感、そういう類の、ことばでは表現できない内奥の感情は、日本人であれば誰もが持っているはずだ(もちろん、それを感じない者もあろうが、そういう手合いは救いようがないとしか言いようがない)。伝統芸能には、その種の安心感や安堵感がある。小生も短歌を趣味としているが、日本語の持つ深遠な響きを耳にするとき、自分がこの国に生まれたことや日本人であることを感謝し、歌を詠むときには安堵の気持ちを覚えるものだ。

 
シェークスピアが世界のどの国においても絶賛されるように、わが国の伝統芸能も世界に誇るべきものである。事実、来日する外国人が歌舞伎座の舞台に狂喜乱舞し、伝統芸能の海外公演が大盛況である現実を見ても、それは明らかなことなのだが。実際のところ、そこには民族的イデオロギーや優越感があるわけではなく、ハイクオリティのもの、ホンモノに対する人々の称賛・感動があるだけだ。

 
つまり、伝統芸能は、自分のアイデンティティを確認する機会であると同時に、鍛えぬかれた巧の技、ホンモノに触れる機会と考えることができる。残念なことに、現在のわが国においては、どの領域においても、ホンモノが少なくなり、ニセモノが魑魅魍魎のごとく跳梁跋扈している。しかしながら、様々な種類の伝統芸能に触れるとき、わたしたちはそこに、「良質」「真実」「誠実」といった、本来、人間が備えているはずの根本的特質を数多く見出すことができる。

 
能・狂言・人形浄瑠璃・歌舞伎・民俗芸能・筝曲・雅楽など、わが国には優れた民族の遺産がたくさん存在する。残念なことに、急激な時代の流れの中にあって、これらは若い世代のほとんどの人たちの生活から縁遠い存在になってしまっており、それらに目を向けている人々はごく少数である。しかし、これらの芸術的価値に対しては、国際的にも高い評価が与えられており、その優れた現代性が指摘されている。前衛的な芸術の創造活動に新鮮な刺激を与えていることも紛れもない事実である。祖先が日常の生活や労働の中から生み出して洗練させた伝統芸能の楽しさや喜びを、わたしたちはもっと積極的に知ろうと努めるべきである。

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